2003年1月8日水曜日

〔再録〕どうして<省事>ができない?


旧HPより:

2003.1.8 視点「どうして<省事>ができない?」



会社を退職してからしばらく経ったある日、退職仲間の数人で集まろうとしたことがある。いずれも悠々自適を楽しんでいる人たちであり、みな暇なはずで翌日にでもと思ったのだが、日程を調整するのにえらく苦労した。皆さんは何かとお忙しいようなのである。ようやく全員の都合の良い日時が決まったが、それは数週間も先の日取りであった。会社を退職すると手帳の予定欄が空白になるのは自然なことである。でもそれは一種の恐怖感を人に与えるもののようで、皆さんは、それ展覧会だとか、それ同窓会だとか、パック旅行だとか、何でもかんでも予定表に入れてゆかれ、予定欄が埋まるとはじめてほっとされるようなのである。勘ぐるわけではないが、それがまた自慢でもあるご様子。予定表白欄強迫症候群とでも呼ぶべきか。長年の二宮尊徳型の勤勉習慣が、すっかり身に染みついてしまって、常に何かしていないと落ち着かないということになり、何もしないでよいという人類本来の最高の楽しみから退職者を限りなく遠ざけているようなのである。


正月3日の日経新聞に、偉大な経済学者ガルブレイスが「新しい価値観に対応を」と題して日本人は経済や社会の成功の意味、評価の尺度を問い直すべき時だと、余暇を楽しむ生活の幸福度の重要性を強調されている。まことに卓見であるが、一つ付け加えるとすれば、強迫観念に追い立てられて「余暇」から「余暇」へと走り回る生活は、本当の余暇でもないし本当の幸福でもないということをもうちょっと説明しておいてくれた方がよかった。西欧文明に生きるガルブレイスにとっては、これはあまりにも自明のことであり、言わずもがなであったのだろうが、勤勉習慣が染みついた日本人に読ませる論文ではもうちょっと親切心があってもよかったと思う。西欧では、聖書の時代から、労働は苦痛を意味するものとされ、その対極にあるのが、エデンの園での「何もしない生活」であった。ヨーロッパの長い夏の休暇を、砂浜で何もしないで寝て過ごす人々を見て、「何で何もしないのだろう」と訝しげに感ずる日本人が多いのであるが、あれこそがエデンの園の生活の実践であり有閑階級の生活なのである。余暇から余暇へ走り回る生活は貧しい。 

もちろん、何もしない生活が続くと退屈してくる。そこで人は「時間つぶし」を考え、自分で遊びを工夫するのである。それが余暇であり、人は自分の身の丈と能力・素養と趣味に応じた自分だけの余暇活動を自分で工夫するものなのだ。既製品の「余暇」に我先に飛びついたり、「定年後の余暇」とか言うハウツー本を読んで真似をするものではないだろう。古来から遊びとか文化とか創造はこのようにして生まれてきたものだ。人口の高齢化が進み、今後定年退職者層という「有閑階級」が増える日本に於いては、文化とか芸術、更に創造的な発明などが期待できてもよいはずなのであるが、このように「何かやっていないと気が済まない」症候群に取り付かれた人たちばかりだと、それすら望むべくもないだろう。 

これは実社会で活動している現役にも当てはまるように思える。企業組織で働く多くのサラリーマン諸兄も、この「何かやっていないと気がすまない」症候群に取り付かれていないだろうか。最近どっかの賞を取ったという警察小説『半落ち』(横山秀夫)を読んだが、額面通りではないだろうが、この小説に出てくる有能な警察とか検察の人たちが組織の面子という実に下らないことだけのために多大のエネルギーを浪費して一日24時間働いているいる様には、全くうんざりした。個々の仕事は立派であるが、全体の生産性がきわめて悪いのだ。日本社会全体で「省事」と言う言葉(やらないでも良いことを省くという中国の格言)を思い起こす必要があると、改めて感じた次第である。 

http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/Shiten2003/shiten20030108.html

Posted: Wed - January 8, 2003 at 07:11 AM   Letter from Yochomachi   視点 (Opinion)   Previous  Next   Comments  

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